「長く使い続けること=時間が可視化されたモノ」縁日の取り扱いについて
小さな頃に洋服が気になりはじめ、学生になり古着が大好きになりました。(お金がなく、安く買えたってのもあって。) 色が褪せ、穴が空いていても不思議と格好がよく、同じデザインでも1つとして同じものがない。溢れる古着の中から自分だけのモノ見つける、そんな魅力にハマっていったのを覚えています。 そして誰かが使い古した物が自分を表現するツールとなる、そんな矛盾が面白おかしかった。 着こなすために四苦八苦した洋服(古着)、今も大事に着続けています。 使わないように大事にしているもの、修理を重ね愛用しているものなど、、。 きっと皆さんにも、そんな「長く持ち続けているもの」があるのではないでしょうか。 友人が染めた藍の手ぬぐい。 一つひとつ作られる山道具。 誰かが撮った写真集。 家族のスケッチ。 陶器や張子。 古い家具や中古の道具。 お店の中には自分だけでなく誰かが使っていた物、誰かの手によって作られた絵や作品、山道具がいくつかあります。 全てに共通するのは、どれも「温もり」を感じられる。 押されたシャッターの構図、人の手で書かれたスケッチの線に想いを巡らせ。 ヤケて色褪せ、謎の傷に置かれた状況や生活を想像してみる。 その人が何を考え、何に悩み、何を好きだったのか。 そこへ至るまでの長い時間が、ものの中に残っているように感じるのです。 「新しいものを待ち続ける毎日。」 最近は何もかもが速くなりました。 曲のイントロは短くなり、映画もオープニングは無く冒頭のシーンがすぐに始まる。 待つことよりも、すぐに答えへたどり着くことが当たり前になった。 一日に触れる情報量が何倍にもなった。 画面上の「skip」をすぐにクリックして、待てなくなってしまっている自分になってしまいまいました。 昔と同じ24時間なのに、その中を流れる情報や出来事は何倍にも増えた世の中。 世界的な変化し、「新しい情報」を待てなくなった自分が存在すると同時に、昔から変わらず「長い時間をかけて変化したもの」への愛着は消えない。(自分でも不思議!) 暮らしの中で磨かれながら育ってきたもの。誰かの時間の積み重ねに、人間性を感じ取り惹かれてしまいます。 服も同じです。 どんなに時代のスピードが速くなっても、服は時間を飛び越えて育つことはない。 毎日袖を通し、洗い、擦れ、色が変わり、少しずつその人だけの一着になっていく...




